Xさんたちが大学に入学して4か月が経ちました。大学生活にも馴れて,新しいお友だちもできたでしょうか,などと型どおりに訊ねたら,あまりに白々しすぎますね。
今年2020年は,入学式・開講式が開催されなかったどころか,いまだいちどとしてクラス全員が教室で一堂に会するといったごく普通のことすら,夢のなかのお話になってしまっているのですから。
桜上水のキャンパスへの出入りもままならず,ひとり自宅で機器を相手に「遠隔授業」の受講に追われ,それなのに普段と同じ学費を払っているとは理不尽だ,なんていう思いを募らせていても不思議ではありません。
教員の側でも,Xさんをはじめとして新入生のみなさんと直接相まみえる機会もなく(入学試験の面接や,それ以前のオープンキャンパスの相談会などでお目にかかった方はいますが),パソコン画面に向かっての授業に戸惑っていないと言えば嘘になります。
とはいえ,Xさんをはじめ何人かの方々からは諸々のお問い合わせやご意見の電子メールをいただき,そうでない場合よりもたくさんの言葉を交わしてきましたし,それがなくとも授業での提出課題の答案を名簿と突き合わせて,みなさんがどのような方なのかな,などと想像をめぐらせ,次の教材作成への刺激剤にしてもいます。そして教員にとって本来なにより肝心な授業そのものは,教室でのそれとは別位相に位置づけなおしたうえでの試行錯誤となってしまいましたが,そうすることによってかろうじて対面授業に劣らぬ「質」を保ちえているのではないかと楽観視しています。
全面的な遠隔授業の導入は私たち教員にとってもはじめての体験であり,なにかと制約も多く,対面授業を全面的に肩代わりするものでないのはたしかです。とはいえ利点がまったくないというわけでもありません。
いささか特別で判りやすい例をひとつだけ挙げれば,日本大学入学は決まったものの日本入国ができないでいる留学生も,いまインターネットを通じて国内にいる学生とほぼ同じ条件で授業を受けられています。留学とは大学で学ぶだけではなく,その地の空気を吸い未知の生活のなかに入って失敗をしたり身をもって文化の段差に遭遇するのも重要な要因である以上,授業を受けられるというだけでは不充分であるのは言うまでもありません。ただ,メディアの発展によって,これまであった空間的距離が少しだけ克服されたという面があるのはたしかです。
今回のコロナ禍への対策として「ソーシャル・ディスタンス」を保つように,という行政からの指示がありました。唾液を介した感染がおおいに危惧されるということですので,人と人とのあいだに空間的距離を置くことが感染防止につながるという説明は,理にかなっています。
ただ小うるさいことを言うなら,なんでカタカナ言葉を使う必要があるの,といった誰もが感ずる違和感以前に,social distance(社会的距離)とは社会学で,《一般的には個人が自分の所属集団と非所属集団との間で意識する親近感の程度を示す概念》(『〔縮刷版〕社会学事典』弘文堂,1994年)であり,心理的距離の濃淡を表すものでした。それに対して感染症の拡散防止のために人と人のあいだの空間的距離をとるほうはsocial distancingと称されるようです(これは今回聞きかじった生半可な知識にすぎません)。
これを踏まえるなら,遠隔授業をはじめとしていま私たちがとっているのはsocial distancingであって,お会いしたこともないXさんに私がこうして少しばかり気楽な調子で書いているのは,「日本大学文理学部ドイツ文学科」という同じ集団に所属しているという漠然とした帰属意識によってsocial distanceがちいさく感じられているから,ということになるでしょう。
離れているからこそ両者の思いがよりいっそう高まる「遠距離恋愛」の例を出すまでもなく,空間的距離と心理的距離は比例するわけではありません。ただやはり空間的にそばにいるほうが,心理的にも近しさが増すというのが通例です。そこで,Xさんにしても遠隔授業内でのみ「隣り合わせ」にいる同級生に対して特段の強い思いを寄せることは難しいのではないかと推測します。授業で聞き落とした内容を気軽に聞いてみるといった,教室内でなら何の変哲もない所作すら,敷居が高くなってしまっているのですから。
人が生きてゆくなかで大きな困難に突き当たったとき,根本的に助けてくれる救世主のような人はおそらく現れません。自分の問題は究極のところでは自ら打開するしかない。ただ,日常の困った場面で,誰かがなにか手助けしてくれる,あるいは心配してくれる,という局面ならままあります。
身近な個人的例を挙げるなら,アキレス腱を切ってしまい松葉杖をついてよたよたと歩いていたころ,「壮健な者」を念頭に設計されたつい最近までの文理学部キャンパスの「バリア」の多さを身に沁みて感じたものですが,そんなあるとき授業のため1号館の上階にのぼろうとしていたところを,まったく見も知らない学生がすっと近寄ってきて肩を貸してくれたことがありました。ちいさな出来事ですが,この大学に勤務してこの方,感慨深いひとこまです。
さらに思い起こすのは,2011年の東日本大震災,福島原子力発電所事故のあとの雰囲気です。多くの人びとが自らを取り巻く現状と先行きになんとも言えない不安を抱えながら,それでもテレビニュースや新聞報道の情報をもとに,顔も名前も知らない,地震・津波の被災者,原発事故の被害者たちに思いを馳せ,現地へとボランティアに出向く人もいれば,募金などのかたちで参加する人もいました。上から「絆」などとことさらに言い渡されなくとも,ひととして当然の感情にもとづいた行動だったでしょう。たとえそれが被災者・被害者の根本的な助けにはとうてい届かなくとも,絶望的状況のなかにあって,見知らぬ他者に向けられた共感を抱きうるという点には,今後の社会に向けて一抹の希望を見いだすことができたものでした。(ただしその後の国家政策は,被災者・被害者を切り捨てるものであり,現実にはむしろ社会の劣化が進んでしまいました。これについては他人事ではなく,この社会の一員として自らにも責任があると自覚しています。)
それが今回のコロナ禍にあっては,そもそも検査も入院加療もろくにできないといった行政の重大な不作為は別にして,罹患者はまるで本人に落ち度があったかのように地域住民から指弾され,また生活のために営業せざるをえない飲食店が攻撃されたり,といったかなりぎすぎすした事例がいくつも報道されています。人間の共感などといっても,所詮,自分に累が及ばないかぎりでのものでしかないのでしょうか。ともあれこれは,社会の余裕のなさ,狭量さに由来すると言えますが,こうした動向を社会的少数者(マイノリティ)を標的にした差別煽動,排外主義があからさまに露出されるようになっている現状と考え併せるとき,コロナウィルスとは別種の禍々しさを感じます。
少しは「ドイツ文学」と関係したことでも書けよ,と怒られてしまいそうなので,慌てて取って付けたような話題に移しましょう。
ナチ・ドイツを後にして亡命の途に就いた詩人・戯曲家のベルトルト・ブレヒト(1898-1956)は,ナチがヨーロッパを席捲せんばかりの猛威を振るっているさなか,自分たちを洪水の中に沈んでゆく者,没落必定の者として描き,やがて洪水が引いたあとの,もはや自分たちがいない世界のなかへと《後から生まれた者たち》にその思いを託し,ありうべき社会のありようをこう表しました。
wenn es soweit sein wird / Daß der Mensch dem Menschen ein Helfer ist
《ひとがひとに対してひとりの助力者である,そんな境地になったなら》
ひとがひとに対してひとりの助力者である,とは,稚拙な態のいかにもぎくしゃくとした非文学的・即物的表現であり,それゆえむしろ逆に,そこに強い思いが込められているとも解せます。ここでは,空間的距離はともかくとして,心理的な距離はけっして近しくない相手,それがたとえ見知らぬ他者であろうと,もし困っている人がいるならばいつでも誰にでもさりげなくちょっと手を差し伸べ,そして何ごともなかったように去ってゆく,そんな乾いた関係を思い浮かべるのがふさわしいのではないでしょうか。たまたま見かけた体重のありそうな初老教員にさりげなく肩を貸してくれた青年のとったような振る舞いが普通である社会,これを「ユートピア」と呼ぶにはあまりにつましいかもしれない,しかしそんな境地すらはるかほど遠い現在にあって,大風呂敷を拡げた議論などより切実に迫る言葉です。
もうひとり,ブレヒトと同様亡命の途上にあった批評家ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)は,ブレヒトのある詩に寄せて次のように記しています。
[... erfährt man über die Freundlichkeit, ] daß sie den Abstand zwischen den Menschen nicht aufhebt, sondern lebendig macht.
《友誼とは,ひとのあいだの距離をなくすことではなく,活き活きとさせることなのだ〔…〕》
《友誼》という訳語をあてた „Freundlichkeit“は,„Freund“(友人)から派生した単語で,「親切,好意,親切な言動」といった語義です。
友好的に振る舞うとは,空間的あるいは心理的により近しい関係を結ぶというよりは,いまある両者のあいだの距離をそれとして生きたものにすることである。これは,自分ひとりの生すら覚束ない亡命者だからこそ言い表しえた境地であるように思えます。
はじめに,《新しいお友だちもできたでしょうか》などど失礼なことを書きましたが,《ひとがひとに対してひとりの助力者である》ためには,空間的距離も心理的距離も縮める必要は必ずしもないのかもしれない。少なくともなれ合いのべたついた関係とは別種に捉えるべきでしょう。いま私たちがとっている,そして当分つづくだろうと悲観されもするsocial distancingは強いられたものであるとはいえ,この距離を活かす方途は私たちに委ねられているのです。
そしてまた,日本にいながらドイツ文学を学ぶというときにも,距離を活き活きとさせる創意が求められているのだと,手前味噌に考えています。
Xさんも social distancingの日々のなかにありつつも,いやまさにそこでこそ,教室では得がたいなにものかを見つけてくれるのではないかと,期待しています。そして差し障りなく教室使用をできるようになった折りには,「対面授業」への見方もこれまでとは異なったものとなっていることでしょう。
2020年7月31日
初見基
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