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日本大学ドイツ文学科

オリンピックをめぐる回想

 旬の話題にかこつけ,私的な思い出話を。

 「希和子」さん,「五律」さんという名前の知人がいる。二人とも1960年生まれ。ご本人によると同年のローマ・オリンピックにちなんだ命名だという。戦後も15年を経過し政治・経済は安定に向かうなか,4年後への期待も膨らみ,さらにははるか21世紀につづく明るい未来へのひたすら楽天的な希望が広く抱かれる,そんな時代だった。

1964年の東京オリンピックはまさにそうした「お祭り気分」で迎えられた。「より速く,より高く,より強く」といった標語に表された理念に疑いを差し挟めるほどには,否定的要因は子どもの目に入らなかった。

1968年のメヒコ・オリンピックも一面では素朴かつ熱心に追った覚えがある。学校の課題で新聞切り抜きのスクラップブックも作成した。開会を10日前にひかえた首都シウダー・デ・メヒコで政府を批判する学生・民間人に対する軍隊による大弾圧・虐殺(「トラテロルコの虐殺」)があったなどとは露知らずに。1968年といえば断るまでもなく世界規模での政治的・社会的激動を象徴する年であり,それは大会内でも反映された。そこでいちばん心に響いたのは競技内容そのものよりも,いまではBlack Power Saluteと呼ばれる,表彰式でのUSA選手による人種差別への抗議行動だった。ひたすら格好良いと感じた。こんな「大人」に憧れ,抗議者への処分に憤った。

 その後はスポーツ観戦そのものへの興味が薄まり,オリンピックの記憶もほとんどない。1972年のミュンヒェン・オリンピックにしても,将来ドイツの文化と社会を研究するなどという予感もなく,パレスチナ・ゲリラ部隊「黒い九月」によるオリンピック村襲撃・イスラエル選手団殺害事件の報道を知ってはいても,これについてある程度踏み込んで確認したのは近年になってはじめてのことになる。

 USA主導で日本や西ドイツがボイコットした1980年のモスクワ・オリンピックは,はじめてドイツに行った夏だった。北回りでは最安値(といっても高かった)のソ連アエロフロート航空を使ったためモスクワ乗り換えで,五輪とミーシャとキリル文字に飾られた包装のチョコレートを塾で教えていた中学生たちへのお土産に空港で買って帰り,いたく喜ばれた。3週間ほど滞在した東ドイツでは,テレビ観戦をしている学生たちにいっしょに見ようよと誘われたものの,日本選手が出ていないという理由でなくもうスポーツそのものにまったく関心がなかったため,一瞬も見なかった。いまからすれば,ポーランドをはじめ東欧の学生たちの反応などに接していたならそれなりにおもしろかっただろうに,現実から極力遊離して観念世界に生きようなどという若さゆえの傲慢さと依怙地さがそれを妨げてしまった。

 あと1回記憶にあるのは1996年,どの都市での開催だったかは忘れた。この前後1年あまりベルリンで在外研究をしていて,夏には新聞をとおしてオリンピック報道に触れた。自国選手のメダル獲得数を競うような愚劣な報道をほとんど見かけないのには感心した。1936年ベルリン・オリンピックへのヨーロッパでの反対運動を主題にした展覧会で,大勢に異を唱える少数者についての詳細を知った。(ちなみにレニ・リーフェンシュタール監督の同オリンピック記録映画„Olympia“冒頭,「聖火」の「物語」だけでも目を開いて見るならば,「感動」の演出など徹底して疑ってかかるべきものと判る。)

 それから四半世紀。コロナ禍のもとで東京オリンピック・パラリンピックが強行されようとしている。「福島復興」のお題目すら忘れ去られ。どうしても止めないというのならせめて犠牲者が出ないよう祈るばかりだ。こうしてはしなくも露呈したオリンピックという「制度」の歪みをこれまで見逃してきたのは迂闊だった。営利や権力との結託はスポーツ自体にとっても致命的な不幸であり,いまや大学を含めスポーツ界は根底的な態勢見直しが迫られているだろう。

 オリンピックにまつわる個人的な記憶をたどってみて,無邪気さや無関心や不作為が果たす負の働きをあらためて痛感する。これは自分にとっての考察・実践課題のひとつでありつづける。

                         (2021年7月17日 執筆:初見基)

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